名古屋センチュリー劇場に初日に行きました。この作品はヴェネチア国際映画祭での二人の最優秀俳優新人賞が話題になった作品で、見終わった後、爽快な虚脱感を抱くほど二人から感じられる凄まじい生きる力に圧倒されるた。
物語は、中学生の住田祐一(染谷将太)は家業の貸しボート屋を継いで「普通の大人」になることを目標としている。
特別な人生ではなく平凡な人生が彼の望む将来であった。
母親(渡辺真紀子)と二人で暮らしているのであるが、母親はたまに男(モト冬樹)を連れ込んでいる。
父親(光石研)は金をせびりに時折やって来る。その度に「お前は要らない子どもなんだよ」と悪態をつく。
しかし、住田もそんな現実に負けておらず激しく父親を罵る。
そんな住田の境遇に対して、敷地内に住む浮浪者の夜野(渡辺哲)や田村夫婦(吹越満・神楽坂恵)は同情の心を抱きながら、機会ごとに彼に関わり励ましていた。
同級生の茶沢景子(二階堂ふみ)は住田のことが好きでたまらない。自称、住田のストーカーだ。
住田が発する言葉には詩的な響きがあり彼女に生きる意味を与えてくれる。その言葉を紙に書いて部屋中に貼って住田を想う。
茶沢は住田に近づきたいと何かと住田を褒めるのであるが露骨にウザがられる。
でも、茶沢もそんな事に負けてはいられない。愛する人を守るのが彼女の目標なのだ。
そしてある日、住田の母親は「頑張ってね」と言う手紙と2000円を置いて男と何処かに行ってしまう。
住田は、学校を休み貸しボート屋の店番をする。茶沢は学校をサボったりして勝手にチラシを作って撒いたりして住田からウザがられる。
同じ頃、貸しボート屋にヤクザの金子(でんでん)がやって来る。父親が600万円の借金をしたまま行方をくらましていると言う。
「父親なんか関係無い」と反抗する住田はヤクザたちにボコボコに殴られてしまう。夜野も口を挟み袋叩きに合う。
そんな事があっても父親は夜中に来ては金をせびりに来る。そして、いつもの様に「小さな頃、お前が溺れた時、死ねば保険金が入ったのに」と住田を嫌がらせる。
激昂した住田は、ブロックで父親の頭を殴り殺害してしまう。
死体を埋める穴を掘り、涙と泥でグチャグチャになり呆然とする。
親殺しの罪を犯してしまった自分は生きる価値など無いと絶望する。しかし、死ぬ前に世の中に役に立つ事をしたいと思い、悪党を殺すために紙袋に刃物を入れ夜の街を彷徨う…。
こんな感じで、暴力と罵声、やたら走る場面と予定調和に反する展開が繰り返され、ストーリーが進むごとに加速感を増して行く。暴走列車に乗っている様な気分です。
この感覚は、ストーリーに感情が持って行かれるというより、もっと深い部分の魂を揺さぶられる感じ。
そして、最後の場面では「スミダ ガンバレ!」と叫びたくなる。それは、住田へのエールであり、今を生きる人たちへのエールなのだ。
何故そう感じたかと言うと、前作「恋の罪」において繰り返された「言葉なんて覚えるんじゃなかった」と言う詩の一辺が思い出されたからなんだけど、「恋の罪」では、「堕ちる」という言葉を体で知るものであった。「ヒミズ」では、まったく正反対のものであるけど、言葉を覚えることは、詩を肉体で読むことに通じる。
それは、僕たちが抱えている世の中の背景もあると思う。
主人公の貸しボート屋の敷地内に住む浮浪者たちが東北大震災で被害を受け、そこに居ついているなど震災とクロスオーバーされている。作中に回想シーンや夢として瓦礫の山もよく出て来る。
最後の「スミダ ガンバレ!」の場面では、報道などで知っている被災地の状況が空虚な情報から肉体で読むことにつながるのではないだろうか。
さらに若者の無限のパワーというか本能的にもっている生きるためのエネルギーは計り知れない。しかし、世代間格差と言われる様に不公平感を感じている若者も多いし、そんな不文律が日本の未来を暗くさせている。
若者に対して搾取する親。犠牲になる老人。そんな比喩で世相に対する問題提議を現しているのかもしれない。
また、今回も詩が繰り返し用いられる。フランソワ・ヴィヨン「軽口のバラード」の一節。
「牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、どんな人かは、着ているものでわかる…樹脂を見れば木がわかる、皆がみな同じであれば、よくわかる、働き者か怠け者かもわかる、何だってわかる、自分のこと以外なら。」
これは、住田も登場人物も、そして僕たちも人生で陥りがちなパラドックスを解くキーワードなのであろう。
「何だってわかる、自分のこと以外なら。」というトラップは自分では見えないものだ。
自分の心にまとわりつく蔓(つる)のような過去に縛られていても、振り切るように走るしかない。




